仕事を終えたみなさんでしたが、10人参加してくださいました。
最初に、私も医療生協に務めていたこともあり、自己紹介をかねて、なぜ医療生協に就職することになったかを話しました。
私は、兵庫県の浜坂町(現新温泉町)出身です。
高校時代で生物部に入り、クモの研究と称して扇山など山に登るようになりました。
それがきっかけで、森林、環境、林業に興味をもち、鳥取大学農学部林学科にはいりました。
鳥取大学に入ると、それまでの受験勉強からの解放感から、のほほんとした学生生活を送っていました。
そうしたなかで、1年生のとき中国・四国の農学系学生があつまる集会が鳥取大学でもたれ、農業を自主的に学ぶ農ゼミ運動に出会いました。
ただ、農業を学ぶというだけでなく、畑を借りて、耕すなど実践もおこないました。
そして、1年生の夏に、「農ゼミ」主催の北海道酪農実習があることを知りまた。
約1ヶ月の「実習」でしたが、往復の旅費と若干の小遣いがでるということで、「ただで北海道にいける!」と飛びつき、北海道に行くことにしたのです。
行った先は、北海道東部、釧路からすこし北上した別海町というところでした。
「町」とっていも、香川県ぐらいの広さで、自衛隊演習場もあり、どーん、どーんと砲声がときおり聞こえていました。
西牧さんというお宅にお世話になったのですが、乳牛14頭という小さな酪農家でした。
夫婦とあっ子ちゃんという中学2年生の女の子がいましたが、ほかにも愛知県の縫製工場に就職している娘さんなど女ばかり4人の子どもさんがいました。
牛小屋のほうが立派という小さな家で、毎朝5時前に起きて、牛の放牧、搾乳など1ヶ月間実習しました。
生活は大変で、外国からの乳製品の影響から、1リットル約80円の乳価におさえられ、その乳価維持のため、生産調整で食紅がまぜられました。
規模拡大した農家は多額の借金に苦しみ、耐えられなくなり首をつるということが問題になっていました。
福島から別海町に来た西牧一家でしたが、「酪農は楽でないよ」と福島訛りで、よくおばさんは口にしていました。
私は、とても気に入られ、「尚之さん、婿にきてくんないかい」と誘われましたが、酪農の大変さんを感じ、「とても、そんな・・・」とお断りして鳥取に帰りました。
その後、もとの学生生活にもどったのですが、12月のある日、寿司屋のバイトが終わり、夜中だったのですが、同じ林学科の同級生で農ゼミ運動をしていたY君の下宿に立ち寄ったところ、そこに農ゼミのK先輩がいました。
「あ、先輩、どうも。今日はなんですか?」と尋ねると
「あぁ、今日は民青同盟の話をしにきていたところだ。ちょうどいい、岩永、お前、民青に入らんか?」といわれたのです。
これに、私は「いいですよ」と、なんの説明も聞かずに即座に答えたものですから、K先輩もびっくりしたようでした。
しかし、私がすぐにOKしたのはわけがありました。
それは、農ゼミ運動をつうじて、K先輩のまじめに農業を考える姿勢に触れていたからでした。
K先輩は、なぜ、日本農業が困難な状態におかれているのか
そこには、農業を基幹産業とみなさない自民党政治があること
アメリカと財界・大企業の圧力のもとで、日本農業を犠牲にしてでも、おしすすめる農産物の輸入自由化路線について
そして、その農業犠牲の政治のおおもとに日米安保条約があること
そして、農業を基幹産業として位置づけるべきだと主張し、安保条約廃棄をかかげている政党が日本共産党以外ないことなどを丁寧に教えてくださいました
こうしたK先輩のすすめる民青同盟なら間違いがないと思ったからです。
このK先輩というのは、今、兵庫県伊丹市で市議会議員(5期)をしている加柴優美(まさみ)さんです。
結局、Y君は民青同盟にはいらず、私だけが加盟しました。
そして、翌年1976年の6月に日本共産党に入党しました。
それからの学生生活は一変しました。
私は、民青同盟と党活動に没入し、大学は留年こそしなかったものの、民青同盟と党の活動に明け暮れる毎日でした。
そして、大学を卒業するころ、医療生協へのお誘いがあり、“国民の命と健康を守る運動なら喜んで”と、飛び込んだという具合です。
もちろん、民青同盟の活動がこれまでどおりできるという思いもあり。
このあと、「なぜ日本共産党なのか」を医療問題を中心に話し意見交流しました。
後期高齢者医療制度、農業、食の安全、教育と話題になり、大いにもりあがりましたが・・・。
ちょっと前段が長くなり、司会をしていた党委員長の妻からあとで苦言され、結構、落ち込んだ私でした。

西牧牧場 左が住まいで右が牛舎

牧場風景 朝4時半におきて放牧作業をしました。

西牧さん一家 ご夫婦とあっ子ちゃん

一緒に酪農実習にいった農ゼミの仲間たち









