
※クリックで拡大できます。
今回のテーマは「日本の医療制度は?」「世界の常識に逆行して・・・」でした。
中央社会保障推進協議会事務局次長の相野谷安孝さん執筆によるものですが、前半部分でつぎのように書かれています。
アメリカの医療制度の貧困を告発したマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』を見た人が一同に驚きの声を上げたのは、映画が紹介したイギリス、フランス、カナダ、キューバなどの国々では、医療費(窓口負担)が原則無料という事実(世界の常識)でした。
日本でも健康保険本人は1984年まで、初診時や入院時に定額の一部負担はあったものの、原則無料でした。
73年から83年の間は70歳以上の高齢者の窓口負担もありませんでした(老人医療費無料化)。岩手県の沢内村ではじまった老人医療の無料化は1969年、東京都が実施。
つづいて京都府など他の革新自治体でもつぎつぎと実施され、燎原(りょうげん)の火のように全国にひろがりました。
老人医療費無料化は、全国に日本共産党を与党の一員とする革新自治体が広がる中で、自治体の制度として実現させたものです。
こうした自治体の流れに抗しきれず、ついに73年に国の制度として実施されます。
この73年は「福祉元年」といわれました。
また自営業者や農漁民が加入する国民健康保険は61年にスタートします。すべての国民が公的保険によって医療を受けられるという「国民皆保険制度」の実施でした。
しかしスタート当初は5割給付でした。これも、労働者・国民の運動によって実施2年後には世帯主7割給付に引き上げられます。
医療を提供する体制でも、70年代には1県1医大という医師養成の増大もすすめられました。
これを読みながら、「そうだったのか!」「なるほど!」と新しい発見をした思いでした。
ところで、この「老人医療費無料化」で思い出したことがあります。
それは、米村健さんのことです。
米村健さんは、戦前からの日本共産党の活動家で、日本共産党鳥取県委員会の創設者です。
米村健さんは、1907年に米子市西倉吉町にうまれ、米子中学(現米子東高校)卒業後、1923年4月に第六高等学校(現岡山大学)に入学します。
そして、六高在学中、日本共産党三・一五弾圧事件で逮捕拘禁されます。そして、悪法「治安維持法」違反で懲役1年6ヶ月執行猶予3年の不当な判決を受けます。
そのご、上京し、1929年5月にプロレタリア科学研究所主催のエスペラント語講習会に参加。
1929年11月に童謡「夕焼」を「少年戦旗」11月号に発表
1929年12月に童謡「雨」を「少年戦旗」12月号に発表
1930年12月26日に土井晴栄さんと結婚
1930年12月26日 全協加盟日本交通運輸労働組合山陰支部を国鉄の高木利一と共に結成する。米子における最初の労働組合誕生となった。
1931年12月21日 日本交通運輸労働組合を結成し活動したとして逮捕拘留される。「治安維持法」違反として懲役1年の実刑判決をうける。
1932年3月17日 長女理子誕生。獄中にて知る。
1932年12月1日 仮出獄、長女理子はじめて抱く。
1935年 米子市角盤町2丁目に「エスペラントの家」を開設、「エスペラント文学」に「赤ん坊ノート」を発表。
1936年8月 長塚節「土」をエスペラント語に訳す。国際革命エスペラント作家協会日本支部を創設する。全文エスペラント語の機関紙「Majo」(マーヨ・5月)の編集責任者として3号まで発行。
1937年2月 エスペラント運動を秘密結社として弾圧、「治安維持法」違反で懲役3年の実刑判決をうける。
1944年3月16日 次女瞳誕生
以上が戦前の米村健さんの略歴です。
映画「母べえ」を彷彿とさせます。
戦後は1945年11月14日に日本共産党に入党し、日本共産党鳥取地方委員会を結成します。
そして、1945年12月23日に宮本顕治・百合子夫妻をむかえて大演説会を米子市朝日座で開催します。
その後日本共産党鳥取地方委員会責任者となり、米子市議(3期)、日本共産党鳥取県員長、米子医療生協や米子民主商工会設立に参加し、参議院選挙や県議選、知事選、米子市長選挙などの選挙に立候補するなど、鳥取県党の数々のたたかいの先頭にたってこられました。
その米村健さんが1987年7月4日になくなられたのですが、その「遺稿集」である「夕焼け 小焼け」(編集 米村健遺稿集編集委員会 1993年は8月刊行)の「発刊を祝して」ということで石尾実さん(当時の日本共産党名誉鳥取県委員長、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央常任理事)がつぎのような文章を書かれています。

前略
米村さんは、「三・一五公判」記録のなかで、「当時私は刑につくことを厭って謝罪する、といった気持ちは全くありませんでした。党の方針にしたがって、どこまでも闘っていく覚悟が自然とありました」とその心境をさりげなく語っています。
この本は、権力のどんな圧迫にも屈せず、初志を貫いた革命家としての米村さんとともに、文学全般に造詣の深かった米村さんの謙虚でやさしい人柄をほうふつとさせる貴重な人生記録です。
米村さんは、戦前1928年(昭和3)の「三・一五弾圧事件」をはじめ、前後3回にわたって、人権をふみにじり、侵略戦争を推進するための最大の悪法であった「治安維持法」の違反に問われ、5年6ヶ月もの不法な刑を受けました。
戦後、治安維持法は、日本が「ポツダム宣言」を受諾したことによって廃止され、この「法律」によって「有罪判決」をうけた人々は、すべて「将来に向けて其の刑の言渡をうけざりしものと見做す」として、無罪とされました。
中略
どんな困難や曲折のなかにあっても、人類史の進歩への確信にもえてたたかいぬかれた先輩・米村さんの先見性と不屈性、働く国民への献身性に対して、心から敬意を表したいと思います。
中略
米村さんは、鳥取県の共産党組織の創設者として、また、60年安保闘争時の県委員長として、この歴史的なたたかいを指導し、統一戦線運動を大きく発展させました。
さらに第八回党大会前の党員拡大運動では倍加をかちとり、党綱領を確定するたたかいでは綱領路線を一貫して擁護するなど、鳥取県の共産党組織を大衆的な基礎のうえに建設し、県党の思想的、政治的団結を一段と新しい水準にひきあげました。
1970年(昭45)の知事選で米村さんは、「わが刃 歯こぼれすとも敵の骨 切りてしやまんと演壇にたつ」と気迫をこめて、自民党石破県政を糾弾し、広範な県民運動とも結んで、ついに国にさきがけて全県下で老人医療費無料化を実現させました。
米村さんは、心から民衆を愛しつづけた詩人であり、真の意味の知性の人でした。
「米村健遺稿集」の発刊をお祝いするとともに、一人でも多くの人がこの「遺稿集」をお読みいただけるようお願いする次第です。
鳥取県での老人医療費無料化を、国にさきがけて実現したたたかいには米村健さんの存在があったのです。
くしくも今日は4月22日は、83年前の1925年に治安維持法が交付された日でした。
「老人医療費無料」と「治安維持法」をかなり無理してむすびつけたような話になりましたが、米村健さんのご紹介とします。
ちなみに、4月27日に米子市公会堂で国賠同盟西部支部のみなさんなどがつくる実行委員会主催で「米村健さんを偲び、南京大虐殺の真相を聴くつどい」がおこなわれます。
ぜひ、多数のご参加をお願いします。

※クリックで拡大できます。










