14日も浜坂の家で過ごしました。
午前中は、昨日にひきつづいて草むしりに精をだしました。
長袖シャツに長ズボン、首にはタオルをまいて、くつしたに軍手、麦わら帽子をかぶって、携帯かとり線香をぶらさげて。
およそ2時間半。汗だくだくでしたが、買ったばかりの草刈カマと小型の剪定ばさみをつかって、だんだんと要領もよくなって、不思議なくらいもくもくと草取りをしました。
バルセロナオリンピックだったでしょうか、当時14歳の水泳で金メダルをとった岩崎恭子さんが「これまで生きてきた中で一番幸せ」といって話題になりましたが
「これまで生きてきて、草取りをこんなに一生懸命やったのは初めて」のことでした。
あれだけ草ボウボウだった庭もすっかりきれいになりました。
しばらくボーッと眺め
汗だくの服を脱いで、風呂場で汗をながすと爽快な気分になりました。
もともと、この家はたててから古く
昭和7年ごろの築と聞いています。
その新築のときの写真が下の写真です。
一番前の右にたっているのが母で、3歳ぐらいとききました。

前列の真ん中に座っているのがこの家をたてたおじいさんの松岡熊蔵さんです。
この熊蔵さんは、大阪の平野でメッキ工場を経営して、とても成功して、そのお金で隠居してから住む家にと建てたのがこの家だそうです。
その後、この家に父と母が昭和27年に結婚して、住むことになったのです。
この家は、旧浜坂町の字名を「御屋敷町」というところにありました。
近くに酒蔵があり、土地持ちさんもいたからでしょうか、大きな家があり、「御屋敷町」という地名がついたのかもしれません。
しかし、昔はそうでしたが、だいたい歩いていける範囲になんでもあって、八百屋さん、豆腐屋さん、魚屋さん、風呂屋さん、そして竹輪屋さんが何軒もあって、目の前で焼かれた竹輪がながれているのをみていると、焦げて売り物にならなくなった竹輪を「ほれッと」おじさんがくれたことを覚えています。
それから、針工場もありました。
浜坂は縫い針をつくる工場がたくさんあって、全国、外国にもたくさん輸出していたそうです。
そのころのことが「以命亭」という町の民俗博物館で紹介されています。
いまは、八百屋さんも風呂屋さんも豆腐屋さんもなく、当時の面影はすっかりなくなりました。
避暑用に建てた家ですから、夏は抜群のすずしさです。
そのかわり、冬は暗くて大変寒いという「弱点」のある家です。
家の前は、舗装されてなく、車もめったに通らない、こどもたちの絶好の遊び場でした。
その道にめんした玄関の木の門で、その後台風で倒れていまはブロック塀になりましたが、それにもたれて「なまいきポーズ」をとっている私です。

縁側もなつかしい居場所でした。
これは、3つ上の兄の幼稚園の「おかよいノート」をみて、金太郎がクマを投げ飛ばしている絵をみて、これを指差して、鼻をたらして笑っている、はずかしい写真。

草取りに悪戦苦闘した庭も、子どもの頃の遊び場でした。
「尚之写真とったるけえ、そこに立っとれえや」
父のそんな声がしたのでしょうか、ちょっと緊張気味の私です。

庭でとった写真は比較的多く、そのなかの一枚。
「はい、笑ってー」
これも父のそんな掛け声にあわせたのでしょう、豪快に笑う母と、案外うれしそうな私。

そして、縁側の私と母を写した写真ですが、ふとんが干してあります。
名誉のためにいっておきますが、私は寝しょんべんだけはしたことがなかったと。
ほとんどなかったと。
ひとたび寝たら、朝までぐっすり寝ていて
「本当にあんたは世話がなかった」と。
赤ん坊のときも、むつかるということがなくて
「ふとんをあげたら、下のたたみが腐っていたほど」と母。
本当かいなと思いますが。
それぐらい良く寝たと。
そのためか、私の後頭部は絶壁となっています。

そんな写真にまじって、父のこんな写真がありました。
16歳のときの陸士(陸軍士官学校)入隊のときの写真です。

父の陸士入隊は大変名誉なことだったそうで、貧農の父の家族は大変よろこび、当然、父も誇りに感じていました。
しかし、終戦で、訓練中の朝鮮からひきあげ、郷里の鳥取県八頭郡河原町袋河原に。
帰ってからは、青年団活動や公民館活動をしていたそうですが、敗戦で、どんでんがえしの世の中の「大変革」のなかで悶々とした日々だったそうです。
父、20歳のころです。
そして、国体護持の右翼まがいのデモ行進があるときき、これに参加。
若桜街道を天皇制存続を訴え行進したそうです。
それが、GHQの目にとまるところとなり、MPからよびだされ、「お前は軍国主義者か」と追及されたこともあったと、年をとってからですが、私に恥じ入るように話してくれました。
その後、鳥取師範学校(のちの鳥取大学教育学部)に入学し、年齢が二つも三つもちがう年下の学生といっしょに学校に通い、そのご教員資格をとり、最初の赴任が母校の河原中学校でした。
そのころ、中学校に出入りしている浜坂の行商のおばさんを縁に、母との出会いとなり、結婚。
昭和27年、兵庫県のその家に住むようになったのです。
父は、それから昭和50年まで浜坂町で教員をつとめ、退職した年に日本共産党に入党しました。
「じつは共産党にはいった」と私も同じ昭和50年でしたが、父におそるおそる打ち明けたところ、父も、「わしも入っただ」と別々なルートで入党したことがわかり、「なんだあー」と拍子抜けしながら、笑いあって、ビールをくみかわしたことをいまでも覚えています。
そして、当時なかった共産党の支部を浜坂町にたちあげ、支部長として活動。
母は、「はいってもなんにもわからんけえ」などといって入党しませんでしたが、支部会議には毎回参加し、赤旗拡大では支部の人以上にふやし、配達や集金もするという事実上「党員」のようでした。
いま町議となっている谷口功さんの当選にも、夫婦でわがことのようにがんばり、谷口さんとはいまでも親戚同様のつきあいです。
その父のよく話していたことに、父の兄、直行さんの話しがありました。

父は、4男2女の3男でしたが、ひとつ上の兄の直行さんがとても好きで好きで大好きだったそうです。
しかし、その直行さんはフィリピンで戦死。とてもとても悲しかったそうです。
私の名前は尚之ですが、読み方は、おなじ「なおゆき」。
「お前の名前には、字がちがうが兄貴の名前からとった」と話していました。
ちなみに、「尚」の字は、二中時代(現鳥取東高)の同級生で仲良しの岸慶尚(よしなお)さん(河原町の岸医院の大(おお)先生)の名前の文字からとったそうです。
慶尚さんとは、袋河原から立川の2中までいつもいっしょに自転車で通ったそうです。
浜坂で草取りをして、ちょっとノスタルジックな気分になっていた私ですが、15日は終戦記念日。
父の話や直行さんのことも思い出しながら、戦争がどれだけ人生を翻弄したことか。
もし戦争がなかったらなどと思うばかりです。
二度と戦争をおこさせない。
これは時代を次いだわたしたちの責務です。
今日は、街頭からおおいに反戦平和を訴えてきたいと思います。
- 2008/08/15(金) 06:27:55|
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13日は、兵庫県新温泉町浜坂にある、わたしの生家にいきました。
私の母は、2000年2月に、父は2003年10月に亡くなり、それ以来、ときどきは家に行っては、風を通すほどで、父が手入れをしていた庭は、すっかり荒れ放題で、以前の姿は見る影も無い状態になっていました。
ときどきは気分しだいで草取りはしてきましたが、本格的な草取りをせずにいました。
そのため、雑草の勢いはすさまじいもので、つぎつぎと生え広がり、おまけにつたまでが、植木にからまって、松やさつき、つつじやキャラボクなど、いまにも絞め殺されそうな状態になっていました。


これはいかん。
今日は、反省して、腹をかためて
「よし徹底してやろう!」と、草取りをおこなうことにしました。
とにかく、やぶ蚊がひどいので、その対策が必要です。
いつかは草取りを妻としようと買っておいた二つの携帯用の蚊取り線香がそのまま使わずじまいでおいてありました。
それを二つとも紐にとおして腰にぶらさげました。

肌がすこしでもでているとヤブ蚊にかまれますから、長袖のポロシャツを着て、首にはタオルをまきつけ、頭には麦藁帽子、長ズボンにくつした、手には軍手と「完全武装」でいどみました。

そして、「よしっ、かかるか!」と立ち上がった、その瞬間から汗がどっとふきだしてきました。
庭に出て、まず目に付くのがセイタカアワダチソウでしょうか、図鑑をみるとヒメムカシヨモギとかオオアレチノギクに似ています。
とにかくやたらと背の高い草で、まずは、これを両手でつかんでは抜き、つかんでは抜いていきました。


雑草で一番多かったのはドクダミでした。

これは、においでわかりました。
けっこう茎ががんじょうで、つかんでちぎるとプチンプチンと音がしました。
これが結構地下茎でつながっていて、つづじやキャラボクの隙間からあちこち頭をだしていて、そのため、植木のしたにかがみこんで抜く作業がつづきました。
汗が額からふきだして、目にはいると、チリチリとしみます。
めがねに汗がこぼれ、みえにくくなるたびに、めがねをはずしてタオルでふきとりふきとり、作業をつづけました。
それから、羊歯の仲間です。
最初は、涼しげで、遺しておこうと思ったのですが、とにかくたくさん生えていて、「ええい、もうどうでもいい」と他の雑草といっしょに引っこ抜いていきました。

そして、イネ科の雑草です。
こんなような草でしたが、ちがうようでもあります。
それが、すっかり枯れた状態で芝生のうえに幾重にもおおいかぶさっています。
それをガサッともちあげると、ばらばらと種のようなものがほこりのようにおちていきました。

それから笹です。
というより笹によく似た雑草です。

これは、もう刈り込みバサミでバッサバッサと刈り込んでいきました。

そんな作業を三時間近くやったでしょうか。
刈り取った草は庭のすみに積み上げていったのですが、わたしの胸のあたりまでになり、小山となっていました。
そして、軍手は草の汁でしょうか緑というより赤味がかっ染まっていました。
ズボンをみると、太もものあたりは、汗で色がかわり
草を手当たり次第に草を引き抜き、刈り込みバサミでバッサバッサと無我夢中に刈り込んだせいか、腕の筋肉も相当な疲労状態でした。
しかし、立ち上がって、作業をしたあとをみると、その成果が目にみえてひろがっています。
最初、おっくうにも思った草取りでしたが、やってみると以外に達成感を味わえ、爽快でもありました。
思えば、父にしても、おばあさんにしても、暑い中、庭木の剪定や草むしりに精をだしていたなあと思い出しました。
ちょっと病みつきになりそうな感じです。
それから、なんでもそうなのかもしれません、「えい!」と気合をいれてやってみる。
精神主義だとかなんとかでなくて、とても大切なことのように思いました。
草取りはまだ途中のままです。
終わった後、草刈ガマがほしくてホームセンターにいきました。
すると、陳列コーナーには、じつに、さまざまな草刈グッヅがならんでいました。
こんな道具でやるともっと楽しいだろうななどと思いながら、ステンレス製の薄刃の草刈ガマと、すこしこぶりのと二つ買って帰りました。
そうです、決意とともに、楽しくやる。
これも、どんなことをやるにも大切な「秘訣」かもしれません。
- 2008/08/14(木) 05:59:36|
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12日は、「朝から、なんちゅう暑いだぁ」のあいさつで始まるほど、家の中にいてもじりじりと焼きつくような日となりました。
「暑いなあ」と妻も。
娘も起きてきてテレビをつけると
テレビではオリンピックの暑い報道をしていました。
「オグ・シオは残念だったなー」
「スエ・マイはすごいねえ、優勝候補の中国のチームに勝って」
「北島はたいしたもんだねえ」
赤旗一面には「北島連覇 世界新」「ライバルがくれた闘志」という見出しの記事を読んで胸も熱なりました。
そして熱いコーヒーでパンを食べていると
「しー!なんだか声がする」と妻。
耳をすましてみると、どうやら宣伝カーからの声のようでした。
おそらく民主党です。
わが家から数百メートルさきですが、日の丸交通があり、その門前でよく街頭宣伝しているからです。
昨日は、鳥取駅前の場所取りに「勝利」して気分をよくしていた私でしたが、たえず他党とのたたかいです。
実際、民主党の小選挙区候補は「街頭宣伝600回」と書いたチラシをくばっていました。
公明党も新しいポスターをはりだしました。
6種類か7種類でしょうか。
それから、訪問活動をしていると、「『聖教新聞』をとったので」と赤旗を断る人によくでくわします。
自民党もかつてない危機感から、なりふりかまわぬ活動にうってでてきています。
一区の候補者は石破茂元防衛大臣です。
その石破氏が、6日の日、ある老人施設にきて、「これまでは防衛大臣で行動も制約がありましたが、解任となり、思う存分動けるようになりました」などといって全員と握手したとのこと。
ポスターはというと自民と民主の小選挙区候補のポスターが競い合っている状況です。
「資本主義は限界か」と志位委員長がテレビや週刊誌に登場したり、「蟹工船」がブームとなるなど、日本共産党への注目や期待はこれまでにないものがあります。
しかし、やるべきことをやらなければ吹き飛ばされてしまうと思いました。
そんなこともあって、今日は「よし、うちの団地を全部まわってやろう」と思い立ちました。
ちょうど、選挙の時期もしぼられてきたなかで、ひとつの区切りだとも考えたからです。
私の住んでいるのは、鳥取市の千代川(せんだいがわ)の西岸で、古海(ふるみ)というところで、高草団地という出来て40年ちかくになる住宅団地です。
戸数は約120戸。もとは商店街の家族や従業員むけの団地として市の補助事業で造成されたもので、そのせいか商売をしている関係者の方が多い団地です。
わたしたち家族は長男が小学校にあがる年に引っ越してきて、この団地に住んでおよそ20年になります。
この団地にこしてきてから、90年の総選挙にはじめて立候補、その後衆院選だけで96年、2000年と三度たち、そのほか97年の県知事選挙、99年と03年の市長選に立候補しました。
そのたびに、団地のみなさんにはお騒がせしてきました。
そして、この間に2度町内会長をして、すこしづつ団地のみなさんとの結びつきもできて、赤旗読者もちょっとづつふやしてきました。
多いときは、15軒ぐらいだったでしょうか、赤旗を読んでいただいていました。
それが、いまは8軒ですから、半減です。
ついつい忙しさにかまけて地元をなおざりにしていたことを反省しました。
しかし、いい機会だと、あらたな地点にたって全戸訪問することにしました。
そして、活動のポイントを赤旗日曜版の宣伝紙を全戸にとどけることと、紙面で対話することにおきました。
午前中に半分、暑い時間をさけて午後は3時くらいから残りをまわり
夕方から留守宅をまわりました。
先日の南部町と同様、汗がふきだし、タオル地のハンカチもビショビショになりましたが、どこでもあたたかく激励してくださり、その声におされて、だんだんと暑さもわすれ、疲れもとれていくようでした。
越してきて2年というはじめてお会いした奥さんは
「両手両足マヒでも 病院追い出し国の非情」の紙面をひろげると
「がんばってください。もうなんとかしてもわわないと」
「夫のわずかな年金で不安です」
「私も病院に通っているから、社会保障をよくしてもらわないと困ります」といわれました。
小さな子どもをビニールプールにいれていた若いお母さんは
「がんばってくださーい。応援します」といってくださいました。
わたしが「どこでも物価高で大変という声をききます」というと
「そーですがー、ガソリンも高くって、なんとかしてよっていいたいです」といわれました。
表札の無いお宅でしたが、60代の男性でしたが
最初けげんな顔ででてきましたが
「8班の岩永です」というと
「はあはあ、そうですか、選挙にでられる。がんばってください」と向こうから握手してくださいました。
そして、「国にいいたいことはいっぱいありますけど、とにかく応援しますからがんばってください」とお互い汗ばんだ手でしたが、ぐっと握ってくださいました。
会えたお宅は半分くらいだったでしょうか、なかなか赤旗は増えませんでしたが、ようやく夜になって一軒読者がふえました。
しかし、一区切りの活動ができた充実感を感じました。
これを機会に、さらに、地元とのむすびつきを強めて、まず1割、そして年内に2割程度の20人以上の読者をつくるようがんばりたいと思います。
- 2008/08/13(水) 05:59:22|
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11日は、毎週月曜日の朝の宣伝の日。
境港市議補選で1ヶ月中断したあと再開したものの、JR鳥取駅前はすっかり公明党と民主党との場所取り合戦の場となっていました。
先々週は民主党に先をこされ、先週はかろうじて公明党に場所取りでは勝ったものの、わずかな差の勝利でした。
今週も気を緩めるとたちまち座をゆずることになると、負けてしまうとばかり、7時ちょっとすぎには駅前にでました。
さいわい、まだどこもきていませんでした。
勇んででてきただけに、すこし拍子抜けした感じもしましたが
のぼりを街灯にくくりつけ、「まもろう憲法」と「後期高齢者医療制度廃止」のポスターをはりつけたパネルをたてかけ、音だしのセッティングにとりかかりました。
7時半までは、音を出さずに手を振ることにしました。
すると、プワーンとクラクションの音がしました。
音のするほうをみると、宣伝カーのわきを若桜町の中尾理明(まさあき)町議が車で通りすぎていくところでした。
にこにこして、手を振っています。
車の中には奥さんと親戚の方でしょうか、五人乗っているのが見えました。
ははーん、駅まで迎えに来たんだな、そう思いました。
きっと、お盆で、里帰りした兄弟か親戚かなんかを迎えに来たんだろうな、などと想像しました。
先日、旧国府町の楠城(なわしろ)という鳥取市の奥部で山本善作先生と宣伝中にであったときもそうでしたが
いつもあっている人でも、こんな場所で、こんな風に出会うと嬉しい気持ちになるという「不思議な人間の心理」について書きましたが、これも同じことだなあと思いました。
そういえば妻が話していました。
あんなあ、後援会員のおばあさんが、あんたが駅前で立っているのをみただって
まーあ、岩永さんのご主人だ
なんだあ一生懸命しゃべっとんさるなあ
なにをいっとるだかわからんかったけど
暑い中で、ようがんばっとんさったで
もう涙が出ましたって、そういっとったで 出会ってもなんとも思わない場合もあれば
「がんばっとんさるなあ」と思う場合もある。
朝立ち宣伝というのは、まさに党員や支持者のみなさんの心を動かす活動なんだなあとあらためて思いました。
そういえば、だいたいいつも、にこにこしている中尾さんですが、今日は、いつもより、さらににこにこして通っていったように思えました。
7時半をすぎて、もう音を出してもいいころだろうと、マイクを握って宣伝をはじめました。
おはようございます。
おはようございます。(だいたい二度いいます)
駅前のみなさん。
お仕事へむかわれるみなさん、ドライバーのみなさん。
おはようございます。
日本共産党でございます。
毎週朝の宣伝をさせていただいております。
本日もこの場所をお借りして、朝の宣伝をさせていただきます。
どうぞ、よろしくお願いします。
私は、党県委員会の岩永尚之と申します。
総選挙では鳥取一区と比例代表中国ブロックの重複候補ということでがんばることにしております。
どうぞ、よろしくお願いします。
選挙の時期はまだ確定しておりませんが、年内、あるいは年明け早々におこなわれんじゃないでしょうか。
わたしたちは、なんとしても今度の選挙で中林よし子さん。
4期衆議院議員をつとめた中林よし子さんを国会に送り出したい、そう考えております。
中林よし子さんは、国会では、おもに農林水産委員として農業・食糧を守る先頭にたってがんばってこられました。
たとえば、いま毎年毎年80万トンのコメを輸入していますが、国際貿易協定の約束だ、義務だからしょうがないという政府にたいして
義務でもなんでもないこと
ことわろうと思えばいくらでもことわれること
お隣の韓国でも、国の実情をふまえて全部輸入していないことも示して政府を追及しました。
これにたいして、政府も「中林さんのおっしゃるとおりでございます」と認めざるを得ませんでした。
それなのに、100%自給できるコメをあいかわらず輸入する。
食糧不足で飢えに困っている国がたくさんあるのに、世界中から食糧をかいあさる。
経済発展で食糧の需要をたかめる国がふえ、一方で干ばつ被害など、もう安ければ外国から買えばいいというようなやり方は通用する時代ではありません。
鳥取県の基幹産業は農業です。そして漁業です。
その農業、漁業が深刻な状況にあるなかで
農業の問題でも、ためされずみの政治家である中林よし子さんをなんとしても国会に送り出すために、どうか大きなご支援をよろしくお願いします。
こんな調子で、宣伝をはじめました。
すると、目の前に若い男性が近づいてきました。
Tシャツはよれよれで少し汚れていました。
髪は伸び放題の長髪で、顔や腕など、日焼けをしてすっかり真っ黒でした。
その青年が、あごとむすんだ口をつきだして、にらみつけるような目で私を見るのです。
一瞬、どなりつけられるか、つかみかかられるかと思いました。
しばらくうろうろしていましたが、私の視野からいなくなりました。
ホームレスだろうか、そんなふうに思いました。
気持ちよく寝ていたところに、大きな音をだして目が覚めて
このクソ暑いのになんだと、その抗議にやってきたのかと
そんな想像が、頭の中をぐるぐるかけめぐるなか、一方でいつものように演説も。
同時に、いくつものことをこなす人間の能力。
たいしたもんだなあ、などとこんな、さらに余分なことまで考えながら、演説をつづけました。
8時をすこしすぎて、どうもご静聴、ご協力ありがとうございましたといって頭を下げて、今日の宣伝を終えました。
そして、左のほうに目をやると、さっきの青年が植栽の囲いに腰を掛けて座っていました。
どうやら私の演説を聞いていたようです。
手を上げて、「どうも」「暑いですね」などと声をかけると
ニコッと笑みを返してくれました。
あとで、少し、話でもきけばよかったなあと悔やみましたが、にらみつけるような目をしていた青年が、一転笑みを返してくれた、天地の差の思いでした。
ところで、公明党は?銀杏県議は?
今日は来たのだろうか?
すっかり忘れていました。
来たとしたらあきらめて帰ったか
最初から来ることをやめたのか
さだかではありませんが
来ないと来ないで気になるものです。
本当に、いろんなことを思うものです。
そしていろんなことがあるものです。
朝宣伝の「面白さ」やら,いろいろことを体感したこの日の宣伝でした。
- 2008/08/12(火) 05:38:47|
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10日は、今年の10月19日投票で町議選と町長選をたたかう南部町でおもに行動しました。
午前中は、亀尾共三さん(現・3期)と街頭宣伝。
朝から真夏の太陽が照りつけるなかでしたが
落合、掛相(かけあい)、馬佐良(ばさら)、法勝寺(ほっしょうじ)、原、スーパー丸合前と6ヶ所でおこないました。
演説が終わるたびに、「暑い、暑い」といいながら、ときおり吹く風に少し秋の気配も感じました。
午後からは、旧会見(あいみ)町の植田均さん(現・1期)と訪問活動。
植田さんの住む天萬(てんまん)を午後1時半から3時45分まで、炎天下を2時間以上歩きました。
額からしたたる汗が目にしみます。
タオル地のハンカチで、ふきだす汗をぬぐい歩きました。
植田さんも汗でびっしょりで、カッターシャツが背中にぴっちりと濡れてはりついていました。
訪問先では、後援会ニュースを読んでくださるようお願いし、この秋の町議選のことを話すと
「あら、4年たちましたか!もう、そげんなりますかいねー。早いもんですなあ」
「がんばってごしなさいませよ」などと激励してくださいました。
後援会ニュースをお願いすると
「ええですよ、入れてくださいませ」と二軒が断った以外は、こころよく了解してくださいました。
そして、このなかで二人の日曜版読者がふえました。
二時間以上炎天下を歩いて、歩いて、自分でも感心するほどでしたが、後援会でも赤旗読者もふえて、ものすごく汗をかきましたが、こういうのを気持ちのよい汗というんだろうなと思いました。
さて、9日の米子9条の会の文化講演会での井上ひさしさんの話のつづきですが
前回は木田宏という文部省の官僚が、日本がようやく敗戦後の占領下から抜け出して、「主権」を回復し、最初の国際的な仲間入りの機会となった南極探検をめぐって米・ソなど7ヶ国が南極の権益をめぐって大もめ。
南極探検計画が頓挫しかけたなかで、「それは困る」と、これを読んで、頭を冷やしてくれということで英訳憲法をわたしたところ
翌日、これを読んだ各国代表が反省し、その後、南極はどこの国のものでもないという「南極条約」締結につながったという話の途中でした。
井上さんの話のつづきです。
この「南極条約」をもとに「宇宙条約」がつくられました。
宇宙はどこの国のものでも、だれのものでもないということです。
「きぼう」というのは本当は「宇宙条約」違反なんです。 *「きぼう」:地上約400キロメートル上空に建設が進められている巨大な有人施設、国際宇宙ステーション(ISS)。
*米国・ロシア・欧州・カナダなど世界15ヶ国が参加する国際協力プロジェクトで、日本はその一部となる「きぼう」日本実験棟を開発し参加。
宇宙ステーションはいつでも軍事施設になってしまうんです。
宇宙からの偵察。
宇宙からの攻撃。
自民党と公明党が「宇宙基本法」を改悪しました。
アメリカの戦略を支援するためなんです。 ※
「宇宙基本法」どこが問題か それから海底も人類みんなのものなんです。
どっかの国が勝手に自分のものにできません。
軍事利用ももちろんです。
こんな風に日本の憲法が「南極条約」に実り、宇宙や海底のきまりにもつながっていったんです。
つぎに井上さんの話は世界の非核地帯のことにうつりました。
ラテンアメリカ、中米、南米ですが、ここには核兵器はもちこめません。そしてもちろん「つくらない」し「つかわせない」。非核地帯なんです。
これも「南極条約」がもとになっているんです。
それからフランスやイギリスがたびたびおこなった核実験に閉口して南太平洋にも「ラロトンガ条約」というのができました。 *ラロトンガ条約:フランスによる核実験再開と日本による放射性廃棄物投棄計画を契機として、オーストラリアのイニシアチブにより1985年8月に署名された条約で、南太平洋に非核地帯を創設した1986 年12月発効
それから「東南アジア条約」です。「バンコク条約」ともいいます。
日本、韓国、北朝鮮、中国以外みんな参加しています。
それからアフリカ条約。
ここですごいのが南アフリカ共和国です。
南アフリカは6番めの核兵器保有国でした。
しかし、いったん保有したけど廃棄したんです。
世界の奇跡といわれています。
だから、北京オリンピックがはじまりましたけど、南アフリカをぜひ応援しましょう。
それからモンゴル。国内法で非核化地帯となっていますし、中央アジアも非核地帯です。
このように地球の6割は核兵器廃絶をかかげる非核地帯ですし、宇宙もなんです。
みんなもとは南極条約なんです。
そしてそのおおもとは日本国憲法なんです。
話し合いで解決しましょう。
武器をもたないようにしましょう。
騒いでいる国は少数派なんです。
まさにこういう大きな流れの後ろに日本国憲法があるんです。 日本国憲法の話もいよいよ佳境にむかいます。
今日も長くなりました。
また、明日続きを報告したいと思います。
- 2008/08/11(月) 05:41:14|
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